評     価  

 
       
File No. 0970  
       
製作年 / 公開日   2008年 / 2009年04月25日  
       
製  作  国   アメリカ  
       
監      督   クリント・イーストウッド  
       
上 映 時 間   117分  
       
公開時コピー   俺は迷っていた、人生の締めくくり方を。
少年は知らなかった、人生の始め方を。
 

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

最初に観たメディア  

Theater

Television

Video
 
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
キ ャ ス ト   クリント・イーストウッド [as ウォルト・コワルスキー]
ビー・ヴァン [as タオ・ロー]
アーニー・ハー [as スー・ロー]
クリストファー・カーリー [as ヤノビッチ神父]
コリー・ハードリクト [as デューク]
ブライアン・ヘイリー [as ミッチ・コワルスキー]
ブライアン・ホウ [as スティーブ・コワルスキー]
ジェラルディン・ヒューズ [as カレン・コワルスキー]
ドリーマ・ウォーカー [as アシュリー・コワルスキー]
 
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
あ ら す じ    M-1ライフルと72年製フォード車グラン・トリノを心の友に静かで退屈な余生を送るウォルト・コワルスキーは、偏屈なまでに自分のみの正義を固持し、それに外れるものはたとえ身内でも許せない頑固な男だった。そんな彼は異人種に対する偏見も強く持っており、近隣に暮らすアジア系の移民に対しては嫌悪感を露骨にするのだった。
 そんなある日、隣に住むモン族のタオ・ローが、従兄であるスパイダー率いる不良グループに命じられ、ウォルトの愛車を盗みに忍び込んだ。ウォルトはM-1ライフルを突きつけてタオを追い払い、失敗したタオにヤキを入れに来たスパイダーたちをも退散させた。ウォルトにとっては、スパイダー達を追い払ったのは単に自宅の庭に侵入されて激怒しただけだったのだが、結果的にはタオを不良から守ったことになり、その翌日タオの母や姉のスーたちがお礼に料理や花、植木などを次々と持参するのだった。
 数日後、ウォルトは不良に絡まれているのを助けたことをきっかけに、スーと会話を交わすようになる。そして、独りで迎えた誕生日に、偶然スーに自宅に招かれて料理を振る舞われた。異人種に抱いていたウォルトの偏見はいつしか薄れ、そんなウォルトはスーと母親に頼まれてタオを預かり働かせることとなった。そして、父親のいないタオを一人前にするという、人生最後の仕事に生き甲斐を感じるようになった。
 ところが、タオに対してスパイダーたちの嫌がらせに対してウォルトが応じたばかりに、事態は思いもかけない方向へと転じる。スパイダーたちによってタオの家が銃撃を受け、さらにスーが彼らの暴力を受けて見るも無残な姿で帰宅したのだ。スパイダーたちを排除しなければタオとスーの未来はない、そう感じたウォルトは、復讐に逸るタオを抑え、単身スパイダーたちと対決することを決心するのだった・・・・・。
 
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
たぴおか的コメント    イーストウッドの、これが映画最後の出演作と噂される作品。評価は文句なしの星10個だ。自由で平等な国というイメージが強いアメリカにおいて、未だ根強く日本人を含むカラード(有色人種)に対する偏見が根強く残っていることを知らされた作品でもある。そして、そんなカラードに対して差別意識を持つ人間の象徴として描かれているのが、イーストウッド自らが演じる主人公のウォルトだ。もっとも、ウォルトの場合は相当に極端な偏屈オヤジであって、彼独自の正義の基準を固持するあまり、身内からも腫れ物に触るような扱いを受けているのだが。
 そんなウォルトだから、隣に住む中国系の移民が自らの領域に侵入しようものなら、迷わずライフルを手にするわけで、それが結果的にいい意味で誤解を招いてタオの一家と親しくなる。その直接の要因となるのは明らかにスーの存在で、彼女の美しい容姿と利発的な会話はウォルトの認識を改めさせるには充分だ。それだけに、同民族の不良グループに暴行を受けた彼女の姿は見るに忍びなかった。暴力に対して暴力で応じることは決して解決にならないという、イーストウッドの強い主張ではないだろうか。そして、それがさらに強く感じられるのがクライマックスだ。ウォルトは復讐に逸るあまり冷静な判断力を失ったタオを地下室に閉じ込める。これは予想通りだった。そして、単身不良グループとの対決に単身で臨む。これも予想の範囲内だったが、不良グループに対してとった彼の行動は私が予想しない衝撃的なものだった。彼の最期の行動、それは父親のいないタオに対してウォルトが父親代わりに教える最後の教訓であり、同時に自分の軽率な行動でタオの一家にもたらしてしまった悲劇に対する精一杯の償いだったのだと思われる。
 ウォルトからグラン・トリノを譲られる事となったタオの誇らしげな顔、私には自分がもらって当然という自信に満ちているように思えた。その自信は、自分にとってウォルトがかけがえのない父であり師でもあり真の友人でもあったという確信、いや真実に基づいているのだ。だから、タオはグラン・トリノを手に入れたことが嬉しかったのではない。彼がウォルトに真の友人だと認められたことが誇らしかったのだ。グラン・トリノは単なるその象徴に過ぎず、それはウォルトが大切にしていた物であれば何であったとしても、おそらくタオには関係なかったのだろうと思う。これほどの作品がオスカーはおろかゴールデン・グローブにさえノミネートすらされなかったことは正直理解に苦しむ。