評     価  

 
       
File No. 1362  
       
製作年 / 公開日   2010年 / 2011年02月05日  
       
製  作  国   日  本  
       
監      督   一尾 直樹  
       
上 映 時 間   98分  
       
公開時コピー   愛さなくちゃ、いけないの。つながりたいから。  

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最初に観たメディア  

Theater

Television

Video
 
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キ ャ ス ト   尾野 真千子 [as アイ]
郭 智博 [as ユウ]
菊里 ひかり [as ケイ]
國村 隼 [as アイの父親]
萬田 久子 [as アイの母親]
麻生 祐未 [as ケイの母親]
風間 トオル [as アイの母親の恋人]
今井 清隆 [as 音楽大学教授]
遠野 あすか [as ユウの彼女]
内山 理名 [as 猫を抱く女]
 
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あ ら す じ    ある日の昼下がりのこと。とで暮らすピアニストのアイの心の中に、空から何かが落ちてきた。そして、同じ時に彼女とは何のつながりもない会社員のユウと高校生のケイも同じ感覚にとらわれ、3人ともその場に倒れて気を失ってしまった。
 3人は何事もなかったかのようにすぐに意識を取り戻すが、それ以来「何かを忘れてしまっている」という奇妙な思いにとりつかれるのだが、忘れてしまった「何か」が何なのかはわからない。しかしそんな違和感は日増しに募り、3人の心の中を占拠していく。アイは両親を避けるかのような言動をとり始め、ユウは彼女に対して心を閉ざしてしまう。新しい恋人とのデートに余念が無いケイの母もまた、ケイの様子が気になって仕方なかった。
 三者三様に周囲の者たちを不安に巻き込んでいくが、彼らはアイ、ユウ、ケイにただ狼狽するばかりで何ら解決策を見いだせずにいた。しかしある時を境に3人の心がシンクロしはじめ、やがて思いも寄らない結末へと彼らを導いていくのだった・・・・・。
 
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たぴおか的コメント    まず言っておきたいのは作品のタイトルについてだが、決して「しんじゅうてんし」ではなく「しんちゅうてんし」が正しい読み方。これを間違えると全然意味が違ってしまうから。とは言っても、「しんちゅうてんし」とちゃんとタイトルを読めたとしても、中身はあまりにも観念的すぎて意味不明に近いものがあるのだが。
 この作品を観たいと思った理由は、主演が尾野真千子であることと内山理名が出演していることの2点に尽きる。ただ、公開早々にインフルエンザになったりしてその後も体調がすぐれず、そうこうしている間にレイトショーのみの上映になってしまった時は、正直観るのをやめようかとも思った。会社の終業時間が17:30、ユーロスペースでの『心中天使』の上映が21:10〜とあっては、あまりに時間が空き過ぎているためだ。ところが、ジュリエット・ビノシュ主演の『トスカーナの贋作』も同じユーロスペースでの上映と知り、だったら空き時間に『トスカーナ』を観れば一石二鳥だと、重い腰を上げてユーロスペースを訪れたわけだ。平日の仕事帰りに2本を観るのは、さすがの私もこれが初体験となった。
 果たして、そこまでしてまで観るべき作品だったかは大いに疑問だったが、それは観たからこそ言えることなので言うのはやめよう。それにしても、尾野真千子扮するアイと郭智博扮するユウは一体何者なのだろう?人間?それともタイトルにもある天使なのか?いや、それ以前に本当に存在しているのかいないのか?また、登場人物の記憶は一体どこでねじれて交錯してしまったのか?とにかく「?」マークだらけで、仕事帰りの疲れた頭に、しかもこの日2本目の映画ともなると、さすがに理解しようという意欲も湧いてこなかった。また、せっかくの内山理名も、最初と最後にほんのわずかの登場だけ。しかも、彼女の抱いていた猫が逃げ出して物語が始まり、猫が彼女の腕に戻ってきて物語が終わりとなるのだが、その意味も残念ながら理解できなかった。多分、疲れていなくても結果は同じだったような気がするのだが。
 映画という物は、そもそもそれを観る観客がいて初めて成り立つものであって、だから作り手は観る者にわかるように作る義務を負うわけで、その意味ではこの作品はその義務を完全に放棄した独りよがりの自己満足に終わってしまっているように思える。あれで一体何が言いたいのか?観る者に何を感じさせたいのか?観る者への配慮を著しく欠いているとしか思えないような作品だったら、監督が自分で観て悦に入っていればいいので、料金を徴収してまで観せる代物じゃないだろう。