評     価  

 
       
File No. 1375  
       
製作年 / 公開日   2009年 / 2011年03月05日  
       
製  作  国   スペイン  
       
監      督   アレハンドロ・アメナーバル  
       
上 映 時 間   127分  
       
公開時コピー   そこは、真実が
滅び去った場所。
  
4世紀、世界の学問の中心地で伝説を残した、実在の女性天文学者の物語。
 

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最初に観たメディア  

Theater

Television

Video
 
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キ ャ ス ト   レイチェル・ワイズ [as ヒュパティア]
マックス・ミンゲラ [as ダオス]
オスカー・アイザック [as オレステス]
マイケル・ロンズデール [as テオン]
サミ・サミール [as キュリロス]
アシュラフ・バルフム [as アンモニオス]
ルパート・エヴァンス [as シュネシオス]
ホマユン・エルシャディ [as アスパシウス]
オシュリ・コーエン [as メドルス]
 
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あ ら す じ    繁栄を極めたローマ帝国ももはや衰退の一途を辿っていた4世紀末。人々はいにしえからの神々を崇めていた中、ユダヤ教と新興のキリスト教が勢力を拡大しつつあり、混沌の時代を迎えていた。そんな中エジプトのアレクサンドリアで弟子たちに教え説くヒュパティアは、深い知性と美貌を兼ね備えた女性哲学者にして優秀な天文学者でもあった。弟子たちの中には彼女に想いを寄せる者も少なくなく、その中の一人オレステスは愛を告白したものの、学問に身を捧げる決意の彼女からきっぱりと拒絶されてしまう。そんな有様を見て安堵していたのは、やはり彼女に密かな恋心を抱く若い奴隷・ダオスだった。
 ある時、キリスト教徒たちに古代の神々を侮辱された科学者たちは、武器を手に報復を図った。ヒュパティアはこれに反対したものの、決定権を持つ父・テオンの答えは「報復」だった。ところが、予想以上にキリスト教徒の勢力は拡大しており、圧倒的に不利な立場に立たされた化学者たちは図書館へと逃げ込み、門を固く閉ざすしか術はなかった。
 裁きを委ねられたローマ皇帝は、抗争の発端である科学者たちを罪に問わないことと引き替えに、図書館を明け渡すことを命じた。そして、キリスト教徒に占拠された図書館は破壊し尽くされてしまい、人類の英知が刻まれた書物はすべて灰と化してしまった。そして、事件を境にアレクサンドリアではキリスト教徒ユダヤ教だけが認められ、古代の神々を信奉する者は異端として弾圧されることとなった。多くの者がキリスト教に改宗することを余儀なくされ、改宗したオレステスはアレクサンドリアの長官に、ヒュパティアの生徒の一人だったシュネシオスは主教となり、ヒュパティアから奴隷の拘束を解かれたダオスは修道兵士となっていた。
 そんな中、ヒュパティアだけは以前と変わらず学問の道を究めるべく研究に励んでいた。とおろが、新たに指導者の頂点に立ったキュリロス主教はオレステスの存在を快く思っていなかった。そして、キュリロスがオレステスを失脚させるべく目を付けたのは、オレステスが今なお親しくしていたヒュパティアの存在だった・・・・・。
 
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たぴおか的コメント    4世紀末に実在した女性天文学者であり哲学者でもあったヒュパティアを『ナイロビの蜂』でオスカー女専女優賞に輝いたレイチェル・ワイズが好演。ヒュパティアの想像画を見ると、いかにレイチェル・ワイズが彼女を演じる適任であったかがよくわかるほど、ヒュパティアもまたレイチェルと同様に柔和な顔つきの美貌の持ち主だったようだ(あくまで想像画だけど)。ヒュパティアという女性天文学者の存在はこの作品で初めて知ったが、コペルニクスが天動説を唱えた15世紀より1,000年以上も遡ったローマ帝国の時代に「地球が動いているのでは?」という命題を提起した女性がいたこと、さらにはコペルニクスから遅れて登場したケプラーによって発見された天体の楕円軌道についても考えを及ぼしていた点には驚きを覚えた。
 けれども、近代以前の時代においては正しいことを主張することは得てして異端として弾圧されるもので、ことに彼女の生きていた時代が近代から遙かに遡ったローマ帝国の時代であれば、なおさら理不尽な圧力がかかったことだと思う。ただ、純粋に彼女が異端だからという理由のみならず、実は権力の巻き添えとなってしまった感があるのは悲しい限りで、そういった人間の浅ましさは今も昔も代わらないようだ。
 この作品ではヒュパティアは最後にキリスト教主一派に捕らえられ、彼女が酷い殺され方をされるだろうことを察したかつての奴隷ダオスに刺し殺されるという終わり方をしているが、史実では裸にされた(この点は映画も同じ)挙げ句、生きたまま牡蠣の貝殻で肉を骨から削り取られて殺害されたとのことで、想像しただけでもその残酷さには身の毛がよだちそうだ。その辺りが史実と異なるのは、ずっとヒュパティアを愛しながらも報われなかったダオスの愛情の証であり、さらに言えばそれは必要以上に残酷な描写を良しとしないアメナーバル監督の配慮だったのかもしれない。それにしても、最初で最後の機会に愛する女性にしてあげられる唯一のことが、彼女を苦しまずに死なせてあげることだとは、ダオスの心が張り裂けんばかりの悲鳴を上げているのが聞こえるような気がする。
 そうは言うものの、映画として冷静に観るならばもう少しヒュパティアにスポットを当てて描いて欲しかったというのも正直なところだ。歴史物としてやむを得ないとは言え、史実の描写により時間が割かれていたように感じられ、一時は主人公がヒュパティアなのか、オレステスなのか、それともダオスなのか、混乱してしまいそうになった。そして、独断と偏見で言わせてもらうならば、せっかく美貌のレイチェル・ワイズを起用したのだから、学問一辺倒ではなく少しくらいのロマンスがあってもよかったんじゃないかな・・・・・?