評     価  

 
       
File No. 2879  
       
製作年 / 公開日   2017年 / 2018年10月20日  
       
製  作  国   ノルウェー / フランス /
       デンマーク /スウェーデン
 
       
監      督   ヨアキム・トリアー  
       
上 映 時 間   116分  
       
公開時コピー   少女の中の“願い(タブー)”が目を醒ます  

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最初に観たメディア  
Theater Television Video
 
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キ ャ ス ト   アイリ・ハーボー [as テルマ]
カヤ・ウィルキンズ [as アンニャ]
ヘンリク・ラファエルソン [as トロン]
エレン・ドリト・ピーターセン [as ウンニ]
 
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あ ら す じ    ノルウェーの雪深い森に、未だ幼い娘のテルマを連れて狩りにやって来たトロン。やがて目の前に一頭の鹿が現れると、彼のライフルは獲物の鹿ではなく娘のテルマに向けられる・・・・・。それから数年後、美しく成長したテルマは、オスロの大学に通うために実家を出て一人暮らしを始める。人里離れた小さな田舎町で、信仰心が深く厳格な両親の元で育ったテルマにとっては、すべてが新鮮だった。
 両親から毎日のようにっかってくる電話が面倒なこともあったが、車椅子生活の母ウンニを気にかけていたテルマの身に、ある日突然異変が起きる。図書館で急に激しい発作に襲われ、救急車で病院に運ばれたが、検査の結果原因は不明だった。テルマは心に大きな不安を抱えるが、その時に助けてくれた同級生のアンニャと親しくなっていく。テルマは、自由奔放で大人びたアンニャに憧れ、彼女のアパートを訪れると、背伸びして初めてお酒を飲み、煙草を吸う。一方のアンニャも、純真無垢だがどこか他人とは違う魅力秘めたテルマに強く惹かれていく。そしてある時、思いの募った2人は口づけを交わすのだが、厳しい戒律のもとで育てられたテルマは激しい罪悪感に苛まれるのだった。
 それからも発作と共に、不気味な現象が周りで起きるようになり、原因を探るために検査入院したテルマだったが、彼女の故郷の病院からカルテを取り寄せた医師から、幼い頃に精神衰弱で発作を起こしたことについて質問される。だが、テルマはそんな重要なことを何ひとつ覚えていなかった。“心因性”という診断を下した医師は、精神を病んでいたテルマの祖母からの遺伝の可能性も疑っていた。さらに、テルマが両親から「死んだ」と聞かされていた祖母が、老人ホームで生きていることが判明する。
 テルマが消えた記憶と家族の秘密に混乱していた頃、アンニャが突然姿を消してしまう。自分の発作との関係を疑ったテルマは、自らの生い立ちを探るべく帰郷し、両親が隠し続けてきた衝撃の事実に直面することとなる・・・・。
 
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たぴおか的コメント     ヒューマントラストシネマ有楽町で『マイ・プレシャス・リスト』に続けて連チャンとなったこの作品。どちらかと言えば『マイ〜』よりもこの『テルマ』の方が、観る前は期待大だったが、蓋を開けてみると逆の結果となった。
 とは言え、決して面白くないわけじゃなく、主役のテルマを演じたアイリ・ハーボー の美しさは目を惹くし、親友となるアンニャを演じたカヤ・ウィルキンズもまた魅力的だ。ただ、“思ったことを実現できる超能力”ですべて集約してしまうという点に大雑把さを感じてしまい、そこに至るまでに積み上げた繊細な要素がある意味水泡に帰してしまっているように感じたのは残念だ。せっかく舞台とキャストが揃っているのだから、脚本にももう一ひねり欲しかった、と言えば贅沢だろうか。
 厳格なクリスチャンである家庭で育てられたテルマが、都会で奔放に一人暮らしを始める。その二極化された環境の間でいずれに振れるべきなのか、戸惑いながらも自らで決断するわけだが、そこでは同時に故郷の両親と親友のアンニャが天秤にかけられるわけだ。そして、個人的に言わせてもらうなら、彼女の家庭は厳格とは言わない。厳格なクリスチャンという見た目の裏側は、常に手枷足枷を強いられて、テルマは“自分らしさ”を発現させることを知らないままに、一種の操り人形として生きてきたのだ。親として正しい選択肢は、彼女の能力が発現しないように抑圧すべきではなく、発現した能力をいかに制御できるようにするか、だろう。なのに、両親は前者の選択肢を選んだわけで、だから幼いテルマを狩猟に連れて行き、馬鹿オヤジはあろうことか猟銃の銃口を娘に向けたりするのだ。もしも引き金を引いていたら鬼畜と呼ぶべき物に落ちていたところだろうが、たとえ引き金を引かなくとも、親として、さらには人間として、失格の烙印を押されて然るべきだろう。
 だから、一人暮らしによって、そこに至るまで無意識下で抑圧を強いられてきたテルマの能力が解放されるのは必然的な結果であって、アンニャの存在は単なる触媒に過ぎない。両親はテルマの育て方を誤ったが故に、それがもたらす結果を我が身に受けることとなった、ただそれだけのことなのだ。ラストシーンでアンニャに見せたテルマの笑顔は、すべての抑圧や束縛から解放された、彼女の真の笑顔だった。