原題“IF BEALE STREET COULD TALK”の意味が謎だったのだが、映画を観てやっとその意味を理解できた。「もしも、ビール・ストリートが話せるなら・・・・・ファニーの冤罪を晴らせるのに」といったところだろう。メガホンを執ったバリー・ジェンキンズは、2年前のオスカー受賞作『ムーンライト』でも監督を務めている。残念ながら監督賞は逃しているけど。
決して悪い作品じゃないのだが、今ひとつ何かが足りないような、そんな印象を受けた。だから、幸い眠気に襲われることはなかったものの、正直119分という上映時間が非常に長いものに感じてしまった。ちょうど同時期に『グリーンブック』が公開されているために、掲示等を見ると結構引き合いに出されているようだが、コメディとシリアスといった作風の違いはもちろんだが、同じ黒人に対する差別が描かれているとはいえ両者は本質的に異なる作品で、比較の対象とするのはいかがなものかと思う。
ファニーを冤罪で逮捕したベル巡査に、黒人に対する差別意識が全くなかったと言えば嘘になる。だが、決して自分が黒人を蔑む故にファニーを捕らえたわけじゃなく、おそらくは手柄を立てたいという功名心と、ファニーが100%犯人だと確信してはいなかったが、社会の底辺にいる黒人だからどうなろうと構わない、という法を遂行する立場の人間にとってはあるまじき考えに占められていたからだろう。だから、もし犯人が白人のホームレスであっても、彼は同じことをしただろうと思う。
ストーリーは、時折捕らえられる以前のファニーとティッシュの仲睦まじさを交えながら、現在の状況を細切れにして追っていくのだが、2人が固い絆で結ばれているのはわかるから、もっと逮捕後の周囲の人たちを深く描き込んでほしかった。特に、なぜあそこまでファニーの母親と姉たちがティッシュを否定するのか。ファニーが白人だったらまさに黒人蔑視の典型的な例になるが、同じ黒人でありながらあの態度は異常だ。この作品を観て、妊娠の報告のためにファニーの家族をティッシュの家に招い他シーン、あれは正直観ていて嫌悪感を抑える事が出来ないほど、まれに見る不快なシーンだった。妻のあまりの失礼さに堪忍袋の緒を切らして手を挙げたファニーの父・フランクには、「よくやった!」と心の中で叫んだくらいだった。